岩波ホールの元スタッフの大竹洋子さん(右)と石井淑子さん=藤田明弓撮影

岩波ホールの元スタッフの大竹洋子さん(右)と石井淑子さん=藤田明弓撮影

2022.6.01

女たちとスクリーン⑧ 岩波ホール・高野悦子総支配人 その1 生みの母から育ての母へ

「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
 

鈴木隆

鈴木隆

東京・神保町の岩波ホールが7月29日、54年余りの長い歴史に幕を閉じる。1974年にエキプ・ド・シネマ(映画の仲間=名画上映運動)がスタートし、うずもれていた世界中の名作、傑作、秀作にも光を当ててきた。


大竹洋子さん

大竹洋子さん、石井淑子さんに聞く(1) 作り手の「志」や「魂」を伝える

 
その先頭に立ってきたのが髙野悦子総支配人だ。2013年2月9日に亡くなった以降も、その情熱と見識はホールとそのメンバーに受け継がれてきた。生前に髙野さんを支え、ともに歩んできた元岩波ホール企画室長の大竹洋子さんと、最も近くで一挙手一投足を見続けてきた元秘書の石井淑子さんに、髙野悦子という女性映画人の魅力と知られざる一面について語ってもらった。
 

「女の監督はいらない」、パリのイデックヘ

--お二人とも髙野悦子さんのすぐそばで仕事をされてきましたが岩波ホールに入ったきっかけは。
 
大竹 75年、私が40歳の時に岩波ホールが人を募集していた。髙野さんが大学(日本女子大)の先輩とは知らなかった。エキプの活動は始まっていたが、演劇の公演とか多目的ホールとしての利用もまだあった時代。

最初の仕事で、衣笠貞之助監督の「狂った一頁」と「十字路」(同年10月にニューサウンド版を特別上映)のあらすじを書いた記憶がある。事務所での書き仕事が多く、最初はアルバイトだったがまもなく社員になった。髙野さんはその頃からおおらかな人だった。
 
石井 大学(日本女子大)を卒業して、就職しないでフラフラしていたら、岩波ホールでアルバイトをしていた友人から、就職するので代わりにと誘われた。社員になる気など全くなくて、切符売りや劇場の受付、プログラムの販売などをしていた。同じ大学のアルバイトの人も結構いた。

75年のイングマール・ベルイマン監督の未公開作、「魔術師」「夜の儀式」「冬の光」連続公開の3本目の時に働き始めた。大竹さんは2本目の時から。髙野さんや岩波ホールとの長く大切な時間がスタートした。
 

石井淑子さん

--髙野さんは大学を出ると、東宝に入社した。
 
大竹 東宝では新しい部署で市場調査、各作品ごとに観客のマーケティングリサーチをしていたようだ。当時としては最先端、画期的な試みといえる仕事だったと聞いている。
 
石井 それまで、「勘」とかで(お客が)入るとか入らないとか言っていたのを、科学的に調査、研究し、アドバイスしていこうとしていた。
 
--でも、髙野さんは監督になりたかった。
 
石井 東宝の上司から「女の監督はいらない」とはっきり言われた、と話していた。
 
大竹 58年に東宝を退社し、後先をあまり考えずにフランスに行った。そういうところが、髙野さんらしい。フランス語もほとんどできなかったらしい。映画監督を目指してパリのイデック(高等映画学院=IDHEC)監督科に留学した。

毎日単語を50ずつ覚えようとしていたようだ。こんなことも言っていた。「セーヌ川のほとりを歩いていたら、犬がついてきて、近くにいたフランス人が犬に何か言ったら、犬が去って行った。この国は犬でもフランス語が分かる」
 
監督科は女性1人で、相当厳しい学校だった。1年から2年になる時に進級できなかったらしいが「同級生が倍になった」と言って、いい方に取るのも髙野さんらしい考え方。入学したときはビリだったそうだが、卒業の時には優秀な数人の中の一人に入っていた。

 イデック留学中の高野悦子さん=岩波ホール提供


興行の世界に転身

--卒業制作は。
 
大竹 「ヒロシマの娘」という原爆後遺症の女性を描いた作品と聞いているが、私たちも見ていない。「外国の人は、原爆が落ちて何年もたっているのに人が死ぬということを理解してくれなかった」と話していた。
 
石井 「自分が日本文化のことを何も知らないことが分かった」ともよく言っていた。フランスで日本文化のことを聞かれても、きちんと話ができなかったと。
 
大竹 イデックを卒業してフランスで働く気はあったが、ついていた監督に仕事の話が来なかったこともあって、日本の文化を勉強しようと62年に帰国した。学生時代の恩師の南博先生(社会心理学)を通じて、能や狂言、歌舞伎などを学びつつ、テレビドラマの演出を目指して放送作家になったが、演出したのはテレビドラマ「巴里に死す」の1本だった。
 
--そのうちに、岩波書店社長の岩波雄二郎(義兄)が68年に岩波ホールを創立し、髙野さんは総支配人に就任する。
 
大竹 髙野さんは最初から総支配人だった。「女の人は肩書があった方がいい」と周囲の人から言われたらしい。髙野さんが亡くなった後、責任者になっためいの岩波律子さんも支配人。総支配人は後にも先にも髙野さんだけだった。
 

エキプ・ド・シネマ運動スタート時の髙野悦子さん(右)と川喜多かしこさん=岩波ホール提供

上映作品への思いと覚悟

--髙野さんは74年の「大樹のうた」を皮切りに、外国映画の輸入、収集、日本映画の海外への普及に尽力した川喜多かしこさんとともに、エキプ・ド・シネマ運動を始める。映画監督から興行の世界に足を踏みいれる。
 
石井 髙野さんはよく「志」や「魂」という言葉を言っていた。自分が映画を作れなかった代わりに、作り手たちが魂を込めて作った映画を上映する。「映画の生みの母にはなれなかったけれど、育ての母にはなれる」とよく話していた。

岩波ホールがまだよく知られていなかった時も、自分がテレビや取材、講演などをすることで、岩波ホールの存在、上映作品について知ってもらうことができる。そのことを、とても大事にしていた。
 
--普段から髙野さんが話していたことで、忘れられないことは。
 
石井 どれもこれも、たくさんある。とりわけ、作品を選ぶ時の心構えはすごかった。「この映画が上映中に、自分が死んでもいいか、後悔しないか」と言い、「信用を築き上げていくのは大変だが、失うのは一瞬だから」とそれだけ強い思いで選んでいると話していた。1本の作品への覚悟というか、その思いにスタッフもみんな思いを寄せていたと思う。
 

岩波ホール

東京都千代田区神田神保町交差点の岩波神保町ビル内にある映画館。1968年にオープンし演劇、講演会など多目的のホールとして使用されていたが、74年2月から東宝東和の川喜多かしこと髙野悦子が中心になり、大手配給会社が扱わない数々の名作・話題作を発掘して日本に紹介する「エキプ・ド・シネマ」運動を展開してきた。第1回作品はインドの巨匠サタジット・レイ監督の「大樹のうた」。ミニシアターとして草分け的な存在にもなった。総支配人は岩波書店の社長を務めた岩波雄二郎の義妹で映画運動家の髙野悦子で、2013年2月の死去以降はめい(雄二郎の娘)の岩波律子が支配人を務めてきた。コロナ禍を含む経営環境の悪化を原因に22年7月29日の閉館が決まっている。

ライター
鈴木隆

鈴木隆

すずき・たかし 元毎日新聞記者。1957年神奈川県生まれ。書店勤務、雑誌記者、経済紙記者を経て毎日新聞入社。千葉支局、中部本社経済部などの後、学芸部で映画を担当。著書に俳優、原田美枝子さんの聞き書き「俳優 原田美枝子ー映画に生きて生かされて」。

カメラマン
藤田明弓

藤田明弓

ふじた・あゆみ 1987年生まれ、フリーカメラマン。オリンパスペン・ハーフを使い、ライブやサブカルチャーを撮影。人物撮影を主に雑誌やテレビのスチールカメラマンとして活動中。

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