DCコミックスから誕生し、アメリカはもとより日本でも、バットマンと共に長く人気を保っている悪役のジョーカー。新作「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」の公開に合わせて、多くの実力派俳優が演じてきたジョーカーの歴史と魅力をひも解きます。
2024.10.09
「ジョーカー」 予想超える大ヒットの理由 祭り上げられたダークヒーロー
2019年に公開された映画「ジョーカー」は、未曽有の大成功を収めた。世界興収は10億7895万ドル(当時のレートで約1187億円)。「デッドプール&ウルヴァリン」に抜かれるまでの5年間、R指定映画の歴代1位を守り続けた。ベネチア国際映画祭では金獅子賞を受賞。第92回米アカデミー賞では最多11部門にノミネートされ、ホアキン・フェニックスが主演男優賞に、ヒドゥル・グドナドッティルが作曲賞に輝いている。
しかし、これほどまでに熱狂的に受け入れられたことは「まったく予想していなかった」と監督のトッド・フィリップスは驚きを語っている。もともと「ハングオーバー」3部作などコメディーのフィールドで活躍してきたフィリップスは、ネット世論の影響が増大していく世相にもはやコメディー映画の居場所はなくなったと感じ、違う路線を模索していた。そこで思い浮かんだのが、アメコミ映画の文脈にマーティン・スコセッシ風のリアルな人間ドラマを持ち込むことだった。
DCの敵役キャラを新解釈
〝ジョーカー〟というキャラクターはDCコミックスのバットマンの敵役として古くから知られている。ピエロのメークで素顔を覆い隠すサイコパスな犯罪者。1989年のティム・バートン版「バットマン」ではジャック・ニコルソンが、08年の「ダークナイト」ではヒース・レジャーが怪演して大絶賛を浴びた(レジャーはアカデミー助演男優賞を受賞)。
しかし映画「ジョーカー」で描かれていたのは、これまでとはまったく異なるジョーカー像だった。いや、劇中でジョーカーと名乗りはするが、厳密にはアーサー・フレックというコメディアン志望の売れない道化師でしかない。アーサーは6人の人間を殺害する。もちろん殺人は重罪だが、プロの犯罪者でもなければ裏社会を牛耳ろうともしない。しがない一介の庶民が、行き当たりばったり的に凶行に及んだにすぎないのである。
ところがアーサーは、期せずして庶民の英雄として祭り上げられる。たまたま地下鉄で絡んできた3人の男を殺害したところ、被害者が富裕層であったことから、疲弊した下層の庶民たちから支持されるのだ。
「タクシードライバー」「キング・オブ・コメディ」
フィリップス監督が自ら認めていることだが、「ジョーカー」には大きな参照元になった映画がある。前述したマーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」で、どちらも「ジョーカー」にも出演したロバート・デ・ニーロが主演している。「タクシードライバー」は孤独なベトナム帰還兵が大統領候補の暗殺をはかるが失敗し、代わりに売春婦のポン引きを殺害したら世間から英雄扱いされる。「キング・オブ・コメディ」はコメディアン志望の主人公が、テレビでネタを披露するために人気番組のホストを監禁するブラックコメディーだ。
「ジョーカー」のアーサーは、「タクシードライバー」の主人公トラビス・ビックルと、「キング・オブ・コメディ」のルパート・パプキンをかけ合わせたようなキャラクターで、スコセッシとデ・ニーロが生み出した倫理的にアウトな人物像をそのままアメコミ映画に移植したものだといえる。「ジョーカー」の舞台ゴッサムシティーは架空の街だが、劇中では完全に70年代から80年代初頭のニューヨークとして描写されていて、ニューヨークを拠点にしていたスコセッシ作品のルックとも非常に似通っている。「ジョーカー」を「ただの模倣にすぎない」と批判するのも、決して筋違いではない。
予想超えた現実社会との結びつき
しかし、一種のダークファンタジーであるはずの「ジョーカー」は、フィリップスが予期していた以上にわれわれが生きる現実と密接に結びついた。広がり続ける貧富の格差、医療の逼迫(ひっぱく)や福祉の削減、脅かされる安全、政治不信や誰かに踏みつけにされていると感じる庶民感情の悪化は、社会的弱者を戯画化したアーサーというキャラクターに、道を踏み外した悲しい人物であること以上に、大きな共感性をもたらしたのだ。
これはアメリカだけの話ではない。洋画不振の日本で50億円を超える大ヒットとなったのは、同年に「アベンジャーズ:エンドゲーム」が公開されてアメコミ人気がピークを迎えた余波だけだと言い切れるだろうか。ホアキン・フェニックスが演じたジョーカーは過去のジョーカーたちのような悪のカリスマではなかったが、カリスマ性とは程遠い人物だからこそ、誰よりも身近な負け犬としてわれわれとコネクトできたのではなかったか?
実際の事件も下敷きに
監督のフィリップスは、映画「ジョーカー」でアーサーが祭りあげられるプロセスを、あくまでも皮肉をもって描いている。というのも、殺人を犯したアーサーが英雄視される流れには、モデルとなった実際の事件が存在するからだ。
84年12月22日にニューヨークの地下鉄で、バーナード・ゲッツという白人男性が未成年の黒人男性4人に違法所持の拳銃で発砲した事件だ。ゲッツは相手に重傷を負わせたまま逃亡し、9日後に出頭して一躍時の人となった。
当時のニューヨークは治安悪化が深刻化しており、ゲッツが自分を守るのは正当な権利だと擁護する派と、10代の黒人を狙ったのは過剰防衛で人種差別だと非難する派、またそもそも法治国家では許されない行為だと主張する派で世論は割れ、大いに荒れた。刑事裁判にかけられたゲッツは、銃の不法所持を除いて無罪となったが、ゲッツに撃たれて半身不随となった青年の母親が民事訴訟を起こすと、積極的な殺意があったことが認められて敗訴している。
ニューヨークで少年時代を過ごしたフィリップスは、この事件をリアルタイムで知っていたという。当事者とは関係のないところで、大衆はヒーローを求め、他人の思惑が交錯し、実像からはかけ離れていく。しかし映画に込められた辛辣(しんらつ)な皮肉は、空前のヒットによってゆがめられ、軽んじられてしまった感はある。
映画「ジョーカー」が暴力を肯定し誘発するという批判にフィリップスは戸惑いを隠さなかったが、現実の世界でジョーカーをクールなキャラとして受け入れるファン層が生まれたことは、この陰鬱な物語が広範な支持を得て、未曽有の収益をあげたことが証明しているように思う。フィクションの中でも現実の世界でも、アーサーは悲しくて卑小な実像以上に愛されてしまったのである。
まったく違うアプローチの「フォリ・ア・ドゥ」
5年ぶりの続編となる「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」は、前作「ジョーカー」が生んだ社会現象に対するフィリップス監督なりのアンサーに思える問題作だ。「ジョーカー」ではどこまでが幻想でどこまでが現実なのかが意図的に曖昧にされ、心情的にも政治的にも観客それぞれが自由に受け取れる余地が作られていた。そしてその自由さがあったからこそ、観客は自分が望む形に解釈し、感応し、補完することができた。
しかし「フォリ・ア・ドゥ」は、まったく違うアプローチでアーサーのその後を描いている。前作のファンの気持ちを逆なでしかねない挑戦的な姿勢がどんな形で物議を醸し、いかなる議論を呼ぶのか。今は世間の反応が楽しみでならない。
<画像使用作品>
「ジョーカー」
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10/9発売 8580円(税込み)
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※2024年10月現在の情報です。